科長神社の歴史
太子町といえば、日本の歴史に深い関係のある建物が沢山あります。
今回はその中の一つの「科長神社」の歴史を紹介します
科長神社の近くには仁徳天皇(にんとくてんのう)陵・推古天皇(すいこてんのう)陵があり、
境内社は二上神社・恵比須神社・琴平神社(ことひらじんじゃ)・稲荷神社があります。
級長津彦命(しながつひこのみこと)・級長津姫命(しながつひめのみこと)など8柱を祀る(まつる)ことから、八社大明神(はっしゃだいみょうじん)とも呼ばれています。
毎年7月24日から30日の間の日曜日の例祭(神社で毎年行われる祭祀のうち、
最も重要とされるもののこと)には、神輿と地車5台が出されて賑わいます。
元は二上山上に鎮座し、暦仁元年(1238年)に現在地に遷座(せんざ)しました。
本殿の裏側には「八精水」と呼ばれる湧き水があり、当麻の刀鍛冶がこの水で刀剣を鍛えたと伝えられています。
当地は神功皇后誕生の地という伝承があり、「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と言われています。
かつて蘇我山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の本貫地(ほんがんち)
(戸籍の編成が行われた土地のこと)でした。
今回紹介したのは、上記の4つの歴史です。
皆さんが知らなかった歴史はありましたか?
今回紹介した歴史のほかにも、まだまだ科長神社には歴史があると
思うので、見つけ次第記事にまとめていきたいと思います。
0コメント