聖徳太子のお墓 PART1
太子町の最も有名な歴史的建造物は、間違いなく聖徳太子のお墓だと僕は思います。今回は、「聖徳太子没後1400年記念歴史講座」で教わった内容をもとに、聖徳太子のお墓について記事にまとめました。
1.聖徳太子墓の作られた時代
古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀後半頃の築造と推定されています。
6~7世紀の大王の系図
6世紀末から7世紀前半には、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘、堅塩媛(きたしひめ)
と小姉君(おあねのきみ)を母とする大王、用明、崇峻(すしゅん)、推古の三代が続いています。
その一方で、蘇我氏と血のつながりのない敏達、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、舒明(じょうめい)系も健在で、この系統の大王を中心に日本の古代国家が形成されることになります。
2.聖徳太子墓 叡福寺北古墳
円墳 径約54m
南に延びる尾根上(おねうえ) 背面造成、墳丘の背後に弧状の溝
聖徳太子墓、埋葬
・「日本書紀」推古29年(621)二月、聖徳太子は斑鳩(いかるが)宮で亡くなり、「是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る」と記されています。
・法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)に、推古29年に間人(はしひと)皇女が亡くなり、翌年に太子と王妃が亡くなったと記されています。
このことから、聖徳太子は推古29年 621年、もしくは推古30年 622年に亡くなったのではないかと推定されています。
3.寺院の造営・石工の渡来
法隆寺・飛鳥寺 崇峻元年(588)百済から仏舎利(ぶっしゃり)とともに僧と、寺工、鑢盤(ろばん)博士、瓦(かわら)博士、画工、が派遣されました。飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に法興寺(飛鳥寺)の造形を開始しました。
推古元年(593)仏塔の心礎(しんそ)に仏舎利を安置し塔の心柱を立てました。推古4年(596年)に完成しました
斑鳩寺・法隆寺 推古9年(601)斑鳩(いかるが)宮の造営。このころから斑鳩寺も建立したと思われます。
塚穴古墳 羽曳野市
現・来目皇子埴生崗上墓(くめのみこはにゅうのおかのえのはか)
方墳 一辺約54m
切石造りの横穴式古墳
来目皇子は、用明天皇の第二子で、推古10年に征新羅将軍(せいしらぎしょうぐん)になり、翌年筑紫で病死した。のちに河内埴生崗上(かわちはにゅうのおかのえのはか)に葬られた。
まとめ
今回紹介したのは6つです。
このほかにもまだまだ紹介するものがありますので、また記事にまとめていきたいと思います。
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