用明天皇と孝徳天皇の謎
用明天皇の謎
私は、太子町にある推古天皇陵・用明天皇陵・敏達天皇陵・孝徳天皇陵の4つの天皇陵の内、用明天皇陵と孝徳天皇陵の2つの天皇陵について下調べをし、疑問に思ったことを鍋島さんに質問してみました。
私は、初め古代の皇居は一人に対して1つしかないと思っていました。そして、用明天皇について下調べをしている時に用明天皇の皇居は6つもあると知りました。そこで、私はなぜ用明天皇の皇居が6つもあるのか疑問に思い、鍋島さんに質問してみました。
A用明天皇の官が6つあったかどうかは分かりませんが、一般的に天皇が変わるたびに都も変わり、天皇を支えている大臣同士も実は力が強く、いつも主導権争いをしていて、用明天皇は力の強い豪族の所へ何カ所も引っ越しを繰り返したため古代の皇居は1人に対してたくさんの事もあるとおっしゃっていました。
今、太子中学校の前にある古墳は用明天皇陵だと思っていました。私が、用明天皇について調べている中で実際の被葬者は明らかではない。と載っていました。そこで、私は実際に用明天皇陵に行ってみました。行ってみると、用明天皇陵と書いた看板がありました。私は、そこでなぜ実際の被葬者は明らかではないのに用明天皇と分かったのか疑問に思ったので、鍋島さんに質問してみました。
A今、中学校の前にある古墳は宮内庁が用明天皇陵としていますが、実際に中を調査することは出来ません。
しかし、日本書紀や古事記など古代の文献(ぶんけん)に磯長の真ん中にある磯長原陵(しながはらのみささぎ)に用明天皇を葬る。という話が載っているとの事でしたした。
孝徳天皇の謎
私は、小学生の頃孝徳天皇に興味を持ち教科書などで調べていました。そこで、私はなぜ孝徳天皇が亡くなったのか疑問に思い、教科書やネットを見て調べましたが載っていませんでした。なので、私は社会科学部をきっかけに孝徳天皇の
死因を、鍋島さんに質問してみました。
A 孝徳天皇は大化の改新後、天皇になりました。そして、中大兄皇子と中臣鎌足と一緒に蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)と蘇我氏を倒しました。
後に、一緒に大化の改新をした中臣鎌足と中大兄皇子は孝徳天皇の言うことを聞くのが嫌で、難波の宮から飛鳥の都に戻りました。
孝徳天皇は1人難波の宮に残され新しい政治をしようと思っていたけど、1人で絶望して亡くなったか、病気で亡くなったのかもしれません、とおっしゃっていました。
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