二子塚古墳の歴史!
皆さんは二子塚古墳をご存知ですか?
二子塚古墳とは、双方墳という形をした珍しい古墳です。
古墳で有名なのは「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」と言う鍵穴のような形をした古墳ですが、二子塚古墳は二つのこぶが並んだような形をしています。
今回はそんな二子塚古墳の歴史について紹介します。
二子塚古墳とは
冒頭で記述した通り、二子塚古墳は普通の古墳とは違って
長方形の土台の上に二つのこぶが並んだ特徴的な形をしており、長辺が69mにもなる大きな古墳です。
東西の墳丘(ふんきゅう)それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰(しっくい)の痕跡が残っています
古墳時代の終末に作られた古墳として珍しく、歴史的な価値が高いことから、昭和31年11月に国史跡(くにしせき)に指定されました。
また、近年おこなわれた発掘調査によって古墳の大きさが判明したことから、令和元年10月16日には、さらに広い範囲が追加で指定されました。
付近には推古天皇陵があります。
豆知識
春になると桜が古墳一面に咲き、とてもいい景色が見られます。 また、ここからの眺めは素晴らしく、羽曳野丘陵に沈む夕日や推古天皇陵のむこうには、あべのハルカスも見えます。
1989(平成元)年には「太子10景」にも選定された町を代表するスポットです。
現在、古墳を守るための史跡整備を行っており、二子塚古墳の素晴らしい景色は、公園内に継承される計画です。
二子塚古墳の歴史
7世紀後半の築造と推定されています。
特徴のある墳丘や石棺の形から、一説には、本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えもありました。
大正4年には、土取りによって東墳丘石室が発見されます。
この時に現地調査を行ったのは考古学者の喜田貞吉(きた さだきち)と梅原末治(うめはら すえじ)です。
梅原の「河内國山田村二子塚調査報告(かわちのくにやまだむらふたごづかちょうさほうこく)」には、大正4年3月末に東墳丘石室の一部が削られ、大石が出たと所有者の田中氏へ報告があり、現地へ行くと頂上が削り取られ、その下に天井石(てんじょういし)がみえ、その下に石室があり、中に石棺(せっかん)を発見したと記されています
大正5年頃には、開墾(かいこん:山野を切りひらき耕して、新しく田畑とすること))により西墳丘石室が発見され、中に石棺を見つけています。
その後、何度も開墾の危機にさらされますが、所有者の努力により守られてきました。しかし、管理の難しさから、昭和31年にはとうとう古墳が売りに出されました。
まとめ
今回紹介した歴史は4つの歴史です
かなり最近のものが多いですね。
調べていて「この特徴的な身近な古墳にもこんな歴史があるのだな」 と感じました
今回紹介した歴史のほかにも、まだまだ二子塚古墳には歴史が
あると思うので、見つけ次第記事にまとめていきたいと思います。
出典
太子町ホームページ 二子塚古墳 8/24
https://www.town.taishi.osaka.jp/busyo/kyouiku_jimu/syougaigakusyuuka/ivent3/1523343429900.html
太子町ホームページ 二子塚古墳【国史跡】
https://www.town.taishi.osaka.jp/kanko_info/rekishi_shiseki/futagodukakofun.html
写真提供:太子町教育委員会 鍋島様
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